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For Executive,Leader,Manager

“はい”は何に対する”はい”なのか?

自分にとって上位者からの指示や命令に対して「返事」をする事は礼儀として当然のことである。

しかし、指示や命令の内容に対して理解や同意していないにも関わらず、“はい”と返事する事はしてはいけないのだが、所謂「場の空気」から、“はい”と言わざるを得ない事が通例である。

中小企業の会議でよくある光景は、社長が幹部を集めて檄を飛ばす。そして最後に「いいか!わかったか!?」で締めくくる。

それに対して参加者は“はい”と返事する。正確には“はい”と「返事せざるを得ない」と言える。

こんなクロージングが日常茶飯事で、後日、社長が「あれ程言ったのに」、「あの時“はい”と返事しただろ」等の常套句で吠え始める。

リーダーが注意しなければならないのは、部下の“はい”の返事をしているのは、礼儀として言っているのか、内容の理解や合意として言っているのかを的確に把握する事。

求めているのは「“はい”という返事」ではなく、「望む結果」なのだから、部下は「望む結果」に到達する方法や知識・技術を知っているのか?それとも知らないのか?この点をリーダーが的確に把握しなければならない。

部下が知らなければ出来なくて当然だから教えなければならないし、教えたことを忘れているなら思い出させる必要がある。

叱るときは唯一、部下が知っているにも関わらず、本人の怠慢でやろうとしていない、やっていない時。

“はい”と言わせても、叱っても「望む結果」に至る確率が高まる訳ではない。「望む結果」に到達したいなら、“はい”と言っている部下それぞれの「能力」や「心理」を把握すべく、日々、豊富なコミュニケーションを取るのが最良の方法である。

 

従事している仕事の経験が長いからプロと言うのは早合点

「業種」と「職種」は異なる。

「転職」は、それまで従事していた「業種」は変わらず、勤める会社が変わる場合もあれば、「業種」が変わる場合もある。

「職種」は、それまで従事していた「業種」問わず、平たく言うと、何の「部署」にいたかという事で、「転職」しても「職種」が変わらないことが多い。

この「職種」と「業種」のいずれにしても、社会人として働き始めてから今に至るまで、ずっと同じで「転職」もしていないという人は稀ではない。

従来は終身雇用と言われる日本式経営がスタンダードだったが、最近でこそ、「転職」する事は容易になり、またポジティブな事として捉えられる傾向になった。

さて、本題。

業歴○年、経験○年と、その「職種」や「業種」に長期間従事している事を、その人の能力目安として捉える事があるが、注意しなければいけないのは、“長年やっている”=その「職種」や「業種」の“プロ”と認識することである。

時間や年数と言う「量」に比例して身につくことがあるのは否定しない。しかし、誰もが同一の「職種」や「業種」に従事したからと言って、同一の能力になるとは限らないからである。

“プロ”という定義は調べても一つではないし、明確ではない。

私が考えるプロとは、先ず「卓越した知識(ナレッジ)・技術(スキル)」を身につけている事、そして「卓越した自己制御能力」を身につけている事、その上で、「与えられる役割に対して然るべき結果を出せる」人を指す。

よって、先述通り、「長く経験しているから」はプロであるかどうかに無関係なのである。

早合点しがちなのは、異なる「業種」や「職種」の人を見て、その人が自分に無い知識や技術を身につけていることを“プロ”という事。

繰り返すが、時間や年数は参考程度でしかなく、それを鵜呑みにして人物判断するのは早合点である。

逆にいうと、時間や年数に比例しないのであるから、短期間でもプロになるという事は可能であると言える。

手を差し伸べることと掴みに行くことは大違い

リーダーは「公平」、「平等」に部下と接することを心掛けなければならない。しかし、これらを勘違いしてしまう事があるので注意したい。

部下の事を親身に思って色々と考えたり行動する事自体はたいへん素晴らしいことである。それが出来るという事は「思い」という“感情”が原動力になっていると言える。

しかし、その“感情”が時に「公平」、「平等」の原則を忘れさせてしまいがちなのである。

リーダー本人は決して悪気もなく、間違えているとも思わず、部下の事を一心に思うが故の言動は、「本人の為になっていない」という状態を引き起こしかねない。

更には、他の部下から見ると、「その一人の部下にだけやっている」と捉えられかねない。

表題の「手を差し伸べる」という事は、「部下自身が自分の意志でリーダーが差し伸べている手を掴みに行く」という状態である。そして、「手を掴みに行く」という事は、リーダー自らが、その部下に対して、言わば「必要以上に構う」という状態である。

例えるなら、座り込んでいる部下を前に、本人が立ち上がろうとするよう促し続けることはしても、立ち上げるのがリーダーの役割ではない。あくまでも、本人が本人の意志で立ち上がることを根気強く待たねばならない、という事である。

よって、リーダーが根気強く「公平」、「平等」を以て、そんな部下に接するも、本人が自分の意志で立ち上がろうとしなければ、それをそのまま放置する事は決して間違えではないという事。

そんな人が組織を去る事が生じても決してリーダーの責任ではない。社会人とは大人であって、大人とは自分自身の事を自分の意識以て決定する人の事を指すのだから。

 

電話で対処する習慣をやめる

「話す」事と「書く」事を比べると、「書く」方がメンドウクサイ。だから、「話す」という方法で対処する方が手っ取り早い。

これをリーダーという上位者が当然化・正当化して平然と行っている組織は決して良くならない。

「話す」は一見、手っ取り早いというメリットを感じるが、「話す」人は「話した」事で、伝えた・終えたと認識するも、聞き手は「記憶」頼りで時間が経てば忘れることになる。要は、話し手本意の方法に過ぎない。

「書く」は書くために一旦、「書く」内容を整理整頓しなければならない。そして、それを文字としてタイピングしなければならない。これらのプロセスがメンドウクサイのだが、内容の整理整頓のプロセスを経るからこそ、落ち着いて冷静に、時には客観的に対処することを捉えられたり、再考することになる。更に、「書く」事で複数に同時に「共有」できるし、「記録」として残る。

対処すると言う事は一過性ではなく、生きたケーススタディと言える。だからこそ、当事者に対して、この機をどう学びに変えようか?と考えるべきが、育成観点を持ったリーダーである。対処中に同時並行にそれを行う事は容易ではないからこそ、振り返ることが必然となる。

「話す」事と「書く」事、リーダーとして考えれば、どちらを選択するべきか言わずともわかるであろう。

“メンドウクサイ”のか?、“文書作成能力不足”なのか?、“単なる横着者”なのか?、“無意識”なのか?いずれにせよ、電話ばかりしているリーダーは見る人が見れば、「多忙」と見えるのではなく、「自分は不出来です」と見えている。

真なるリーダーはメンドウクサイを避けるのではなく、自ら向かって行き克服・解消する事が出来るのである。それは、対処することにではなく、自分自身に、である。

 

会社を変化させると人が辞めることが必然の覚悟を

飲食業を営む会社・店の人員不足が慢性化している。

それだけに、人材流出は避けたいものであるが、会社や店に変化を起こせば、従来まで存在していた人が退社することが生じるという事を覚悟しなければならない。

逆にいうと、人によっては、従来の体制や環境の居心地が良かったので在籍していたという人は、例えば、新たなルール・制度が設けられることにより、提出書類や会議が増えたりすることになり、「ついて行けない」、「やりたくない」、「メンドウクサイ」等と言って辞めるならわかりやすいのでいいのだが、何も言わずに「辞めます」と言うと、現場に近い人になればなるほど、「変化させること」を否定したり、疑問を抱くことになりがちである。

こうなった場合、「今のままでいいですか?」と確認する。もう少し突っ込むなら、「今のままで未来は見えますか?描けますか?」、もっと現実的な事を言えば、「給与UP・休暇増加・有給行使は望みませんか?」と聞く。

こう聞くと、必ずと言っていいほど、殆どの人は「変化を望む」という答えに至る。

多くの人が「変化する」という事に「不安」を抱く。

その不安は大別すると「この先どうなるのか?という“会社”へのもの」と「変化に対応できるか?という“自分”へのもの」となる。

“会社”については、ルールや制度を設けるという事が結果的にみんなにどんな影響を及ぼすのか?を出来るだけ身近な事例を以て説明し、平たく言うとワクワク・嬉しくさせるよう説明する。

“自分”については、人それぞれ「自信」を持てるように話しかけなければならない。但し、ここで誤解してはいけないのが、「誰でも救おうとしない事」。

一聞すると、冷酷残忍、非情の様に聞こえるが、会社の変化を言い換えるとレベルアップとなる。読んで字のごとく、「レベルがアップ」する訳だから、必ずしも誰でもレベルアップ出来るとは限らないからである。

但し、会社として人ぞれぞれに対して「平等」且つ「均等」に「教える(育てる)」努力を怠ってはいけない。

これを前提に、レベルアップについてこれない人が生じ、結果的に辞めるとなれば、それは必然と覚悟しなければならない。

会社(組織)は団体行動。願うは全員でレベルアップしていくことであるが、一人の為に他の犠牲に陥ること無きよう、冷静な判断と覚悟をしなければならないのがリーダーである。

組織図と役職名を決めたけど機能しないのは

一言で言うと、中小企業が陥っているのは「人に仕事がついている」、だから、社長を筆頭にアナログマンパワーで殆どを対処している状態。

本来あるべき姿は、「部署名や役職名を設けて、それぞれの仕事がどんな内容の仕事があり、その仕事を担うのは誰か?」という事。

この様に言うと、「部署名も役職名も設けている!しかし、機能しない!」、余もすると、「うちの社員はレベルが低い、分かっていない・・・」と返事があるだろう。

それはそうなるのが当然で、部署名や役職名を設けた=組織図を設けたという事になるのだが、肝心なのは「ルール・基準・規則」と言われる言葉が示す内容を決めるという事。

これ無くしては組織図は機能しない。

「ルール・基準・規則」を設けるという事は平たく言うと「メンドウクサイ」。だから、創業社長が奮闘する中小企業の殆どがそれに時間を費やすくらいなら、「営業だ営業!」、「売上無いと何も始まらない!」と結果、「避けてきた」状態に陥っている。

時に、これらを社員に「やっといてくれ!」と任せる場合もある。これも無茶な話で社長の役割放棄と言える。他には、「ルール・基準・規則」を設けると「堅苦しくなる」、「自由な社風がいい」、「うちは大企業じゃない」と言い出し、要は「避けている」。

これを避けてきているからこそ、現状と言う結果が起こっている。だからこそ、その結果を変えたければ、「ルール・基準・規則」を設けるという「メンドウクサイ」事に向き合う必要がある。

目の前の「メンドウクサイ」を避け、様々に生じる問題課題に追われて忙殺される日々を繰り返すのか?それとも、正念据えて「ルール・基準・規則」を設けて、これまでの日々から解放され、各自が本当に行わなければいけないことに集中出来る状態をつくるのか?

社長でさえ現在進行形

あなたは、あなたの会社の社長に対して疑問や異論を抱いたことは一度くらいあるだろう。

それを酒の肴にするのではなく、言葉や文字にして、社長に伝えたことはあるだろうか?

こう聞くと、「失礼な事だから出来ない」、「懲罰・報復が怖くて出来ない」、「そこまで思っていないから我慢する」などの返答になるだろうか?

または、あなた自身が「社長は正しい、知っている、分かっている」と勝手に思い込み、決めつけていないだろうか?

だから、社長に伝えないのだろうか?

 

社長と言う仕事を何度か経験して社長をしている社長は「プロ経営者」と言われ、日本にはマダマダその数は少ない。

要は、大中小企業問わず、殆ど多くの社長は「社長業初体験」と言えるのだ。現在、社長業を担いながら、社長業として担うべき内容を学んでいるという事。

それが事実だからこそ、あなたの思い込み、決めつけは無用であり、むしろ、積極的にあなたが発言するべきなのである。

最も不幸なのは、あなたが勇気を以て発言したことに対し、「感情的」に対応する社長の下にいるという事。もし、こうなっているのであれば、絶対に違う会社を探すべきである。

ありがちなのは、社長=創業者として、その才覚で今日をつくり上げてきた事は紛れもない事実であるが、その結果を以て、“全て優れている”と自他共に認識してしまう事である。

決してそんなことはない。

ご存知かもしれないが、社長と呼ばれる人には大きく分けて3タイプある。「起こす人」、「続ける人」、「変える人」。社長は「創業者=起こす人」としての能力は長けていたかもしれないが、「続ける人・変える人」として能力にたけているとは限らない。

あなた自身の進化成長と会社の進化成長のベクトルが同一方向なら、勇気を以て発言しよう!

 

 

現状や事実の把握と認識の重要性

リーダーやマネージャーと言われる、人を動かす人は「判断する」という事が一つの大きな、そして重要な役割である。

その「判断」するに必要なことは、先ず、的確に現状や事実の把握と認識するという事が肝要である。

“シミ抜き”に置き換えるとわかりやすいのだが、出来てしまった“シミ”を落とす時に、「濡れた布でふき取る」、と言った行為を悪気なく、または、それが自然・当然と思い行ってしまうと、付着している“シミ”によっては、「水に触れさせると化学反応して変質してしまう」や「拭くのではなく軽くたたかねば繊維まで入り込んでしまい逆効果」になる場合がある。

要は、「“シミ”を抜く方法」(=プロセス)は正しくても、“シミ”(=原因、問題・課題)が何によって出来たものか?何の“シミ”か?を把握・認識しなければ、望まぬ結果になってしまうという事。

陥りやすいのは、プロセスに集中してしまい、どのプロセスを選択するのが賢明か?を考える事に熱心になってしまう事。

そうではなく、原因、問題・課題によって、選択するプロセスは異なるのだから、先ず何よりも原因、問題・課題を的確に把握・認識するという事が重要である。

だからこそ、原因、問題・課題の把握・認識をするためには、判断する立場・役割の人が“現場”に自ら足を運び、“当事者”に聞く必要がある。逆を言うと、判断する立場・役割の人が自ら動かず、人からの報告や伝聞で判断しようとするなら、望まぬ、誤った結果に至る可能性が高くなる。最も最悪・最低なのは、その結果に至った際に、報告・伝聞してきた人に責任転嫁する事である。

繰り返すが、「どうやって解決しようか?」を考える事よりも、「何故起きたのか?」、「何が問題・課題なのか?」を客観的且つ冷静に、それでいて充分に認識把握することが最も需要である。

付き合いが長い=知っているとは限らない

お客様のみならず、人との付き合いが長さと、相手のことを“知っている”、“わかっている”が比例していると錯誤しがちである。

仕事で見受けられるのは、お客様であるが故に、こちらから仕事に関わる事以外を「質問する」という事は「失礼な事」や「ダメな事」、上司にも同様であり、近年ではセクハラという言葉に腰が引けて、同僚や後輩にさえ、迂闊に質問することも気遣わねばならない。

私の知る限りではあるが、この様に考えている人は多く、それが普通であるとさえ思っている。

「氷山の一角」と言う言葉が示す通り、見えている事、聞いた事は“一角”でしかない。確かに、長年付き合っていると、一角は時間と共に増えるであろうが、決して一角の域は出ない。

気を付けなければならないのは、一角が相手の全てとまでは言わないが、殆どだと“思い込む事”。

“思い込み”が時に従来と違った事象や結果を示した時に初めて“誤解”や“過信”と気付かされるが、その時には大抵、後の祭り。

セールスパーソンは失注や得意先消失という痛くツライ結果を以て、この事をよく知っているはずである。

認識しないといけないことは、相手のことを“自発的”に知ろうとする言動をとる事無しに時間経過のみで相手を知っていく度合いが深まる訳ではないという事。

違う言い方をすると、付き合いが短くても、“自発的”に相手のことを知ろうとする言動を取れば、長年付き合っているというハンデを克服する事が出来る、と言う事。

自分のモノサシで相手を測らない

時に基準や価値とは多種多様である。

冷静な時はこう言われると「当然」、「その通り」と容易に答えられるのだが、普段、何気ない時にはこの事を忘れがちである。

特に部下・メンバーに対して、つい、自分の基準や価値観と言う“モノサシ”で相手を測ってしまい、評価・判断してしまう。

正しくは、相手それぞれのモノサシを用意し、自分と相手のモノサシの違いを認識する。例えるなら、設計士が良く用いる「三角スケール(通称サンスケ)」を用いるが如く、同じ線でも縮尺によって、その長さは異なるという事である。

そして、相手が以前より変化したかどうかは相手のモノサシを基準に評価・判断するという事。

自分のモノサシで測れば取るに足りなかったり、評価に値しない事でも、相手のモノサシで測れば大きな変化になっていることがしばしばである。

そう、捉える事が出来れば自然と相手を評価出来たり、認めることが容易となる。

動かす相手の数だけ揃える必要があるモノサシ。

その数が多くなればなる程、その収納場所に困ると考えるのは、自分の能力・キャパシティが未熟であると考える。