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肩書で人を判断しない

肩書は組織に於いて、ある人の地位や身分を示す代名詞。そして、肩書は一つの「目標」であり、「動機」でもある。

しかし、中小企業に於ける肩書ほど感覚的に付与され、名実乖離しているものは無いだろう。

例えば、「全国部長検定」があったとして、大中小企業の部長と言う名の人が一堂に会すれば、その能力差は歴然と表れるものと推測する。

肩書とはそれぞれの組織に於けるものであるので、組織の人数やレベルに関係なく付与されるので、この様な事が生じる。

要は、何の統一基準もない肩書と言う呼称を以て、その人を捉える事は誤解が伴うという事。

もし、肩書を以て、その人を捉えるならば、その人が所属する組織に於いての、その人の役割や能力を示すものという程度にすればいい。

違う言い方をすると、その人の能力を把握できたなら、その時にその人の肩書を見てみれば、その組織の程度が垣間見えるという事。

あなたの組織と相手の組織の中身実態は決して同一ではない。だから、あなたの組織感覚で他の組織を捉えてはいけないし、無意味である。

社長だから部長だからナド、あなたが思う、肩書に伴う理想的な相手を描いても先述通り、何ら統一基準は存在しないので、実態が伴っている可能性は望めず、むしろ、描いたあなたが実際のギャップに違和感や戸惑い、時には怒りさえ覚えることになるだろう。

肩書ほど当てにならないものは無い。肩書ではなく、その人自体をよーく捉える事。あなたが目の当たりにしたその人の言動がその人である。

 

誰の話も素直に聞く

自分の意志を持つこと、それを主張する事は無いよりも良い。しかし、時にそれが相手を受け入れない“障壁”となってしまう事となる。「長所と短所は表裏一体」の通りである。

気を付けなければいかないのは、相手の“主張”と相手と言う“人物”を同一視してしまう事。

自分より若い人の主張は、自分より若いという事で経験や知識・情報が自分より劣るであろうという先入観を持つことにより、その若い人の主張を素直に聞けなかったり、斜めに聞いてしまう。

逆に、自分より年上で、しかも何らかの肩書を持つ人であったり、有名な人と言われると、先述の逆の先入観で妙に聞き入ってしまう。

極端な事を言うと、その人物を見ずに目を閉じて、プラス、人物の略歴などの情報も事前に聞かずに、その人の話を聞くという姿勢が良いという事。

以上の「誰の話も素直に聞く」というのは“誰の話も”という点に重きを置いた“素直”。

そしてもう一つ。「誰の話も素直に聞く」という事は、相手の話をあなたが“受け入れた”(=認めた)のではなく、あくまでも“聞き入れた”(=聞いた)ダケと言うこと。

よって、“聞き入れた”後に、相手の主張とあなたの主張の相違点や、相手の主張の矛盾点など、あなたの主張をすればいい。

相手の立場から言うならば、自分の主張を“受け入れてもらえない”の前に、全部“言わせてもらえない”、という事で、あなたに対して嫌悪感を抱くことになり感情的になってしまう。

もしかすると、相手は“受け入れてもらう”という事はダメ元と承知の上で、“言わせて欲しい”だけかもしれない。胸の内を吐き出すことでスッキリしたいだけかもしれない場合もある。全部言えた事で満足感や充実感を得てしまうかもしれない。

以上の「誰の話も素直に聞く」というのは“聞く”という点に重きを置いた“素直”。

繰り返すが、常日頃、心掛けたいのは、「誰の話も素直に聞く」。もっと言うなら、「誰の話も先ずは一旦全部素直に聞き入れる」。

 

 

 

“話し”上手よりも“話させる”上手が一流

「話す」はスキルの一つで、これが高いに越したことはない。営業と言う職種やリーダーと言う役職に就いている人は相手を説得したり、物事を説明したりするので特に要求される。

このスキルは誰もが高い訳ではなく、多少で言うと少数の人なので、一見すると“話し上手”は“デキる人”と錯誤しがちである。逆に“話し上手ではない人”は、“デキない人”と思われがちである。

そして、“話し上手”には2種類あり、話す内容の質が低い人と高い人がいる。

前者は単なる“おしゃべり上手”と言え、ペラペラ流暢に話すも、よくよく話を注意深く聞くと、大した話しをしておらず、感銘・共感を受ける事が少なく、右から左に聞き流しても支障ない。後者は本当の“話し上手”で、話す内容に感銘・共感を受け、所謂、話に引き込まれる。

この様に、“話す内容の質が高い話し上手”であるに越したことはない。しかし、それ以上に“話させる上手”であることが本当のデキる営業・リーダーである。

そもそも端的にそれぞれの役割を言えば、営業の役割は、お客様に「買ってもらう」という結果を出す事、リーダーの役割は部下に「動いてもらう」という結果を出す事で、両方とも「相手にこちらが望む結果に至るよう、自らの意思を決定させる」という事なので、話している本人がどれだけ流暢に質の高い話しをしても、相手がこちらが望む結果に至らなければ無意味である。

要は、話す事で相手を説得している、と言える状態であるので、相手が“納得すれば”いいのである。

では、相手が“納得する”という結果に至るには、「人から話を聞かされて」と「自分が(で)話して」のどちらの方法が、より深く“納得する”だろうか?自分に置き換えて一考いただきたい。

答えは自ずと後者の「自分が(で)話して」となる。

よって、あなたは相手がどんどん話す、話したくなるように、「質問上手」、「相槌上手」になる事(ノリやおべんちゃらで「ヨイショ上手」ではないので誤解無く)が求められ、それが“話させる上手”になるという事

「話し上手よりも聞き上手」という言葉を耳にしたことがるだろう、それもこの事を指しており、言い換えれば、「話し上手よりも“聞き出し”上手」となる。

いずれにせよ、あなたが話すよりも相手に“話させる”。このスキルが高い事こそが、一流の営業でありリーダーと言える。

 

 

 

話している事は勉強した事

話している事=アウトプット、勉強した事=インプットと置き換え、これらの関係性を説明すると、インプットする事無しにアウトプットは出来ない。逆に言うと、アウトプットできるのはインプットした事だけ、となる。

因みに、「事件は現場で起こっている」や「習うより慣れろ」が示す通り、“優先”すべきは「アウトプット」。

伝えたいことは、プレーヤーからリーダーとなったなら、それまでにインプットしたことだけでは通用しないので、リーダーとしてのインプットを積極的に行って欲しいという事。

陥りやすいのは、プレーヤーとして一定成果を出したからこそ、リーダーに抜擢されたであろうが、プレーヤー当時のインプットとアウトプットに慢心してしまいがち、という事。

実務やリーダーとしての職務に励む日々に於いて、そのこと自体がインプットと誤解している人も多い。

その結果、実務に於いてはこれまでのインプットを以てアウトプットするので対処や解決が出来るものの、リーダーとしての職務は失敗や対処・解決方法が不明な状態に陥っているにも関わらず、メンツを重視してしまい、最もらしい言動で事を凌ごうとしてはいないだろうか?

平たく言うと、「昔取った杵柄を捏ね繰り回してリーダーをしていないか?」という事。

学生が授業に出席していてもテストで誰でが100点取れないのと同じ。日々の仕事をしているからと言って、リーダーとしての勉強が着実に身についている訳ではない。

アウトプット出来る事はインプットした事。話せる事は勉強した事。

今、あなたが話している事は昨日・先週・先月・去年と比べて、進化変化成長した内容になっていますか?それとも、大して変わりありませんか?

後者なら、インプットが足りませんよ。

 

使う言葉の語彙は正しく理解していますか?

文化庁が平成25年に行った世論調査では、「割愛する」は約65%の人が「不必要なものを切り捨てる」と間違えて認識していることが分かった。正しくは「惜しいと思う物を手放す」という意味である。

この例の様な誤解をした言葉遣いになっていないだろうか?

リーダーが会議の場で発言をする際、威厳を示そうとするばかりに普段の会話では使わない単語をキチンと調べず使っている場面にしばしば遭遇する。

そのリーダーだけの間違いならまだしても、それを聞いた部下たちが、リーダーが使った言葉を“正しい”、とか“カッコいい”と捉えてか、自分で語彙を調べる事もせずに間違えたまま使っているケースも少なくない。そうなれば、その社内では、その言葉が「公用語」となってしまっている。

誤解のまま難しい言葉を平然と話している状態は正しい語彙を知っている人から見ると痛々しくもあり、同時に、その人の知力を疑う。ましてや、その人がリーダー等の要職に就いているのであれば、その組織自体の程度が窺い知れる。

言い換えれば、リーダーは影響を及ぼす立場であるのだから、発する「言葉」さえも慎重かつ適切でなければならない。

平たく言うと、使う言葉一つも勉強したうえで使わねばならないという事。

本物のリーダーは昇格すればするほど自らを高めるべく勉学に励む。ナンチャッテ・名ばかりリーダーは勉学から逃避する。

リーダーである人は「話す」というスキルはそこそこ長けている場合が多い。それだけに、この点は良くも悪くも露呈しやすいという事。知らぬ間に恥をバラまいていないだろうか?

 

賢者と愚者で異なる〝メンドウクサイ”の対処方法

仕事をしていると何かと“メンドウクサイ”事にぶつかる。

対人関係のメンドウクサイ、書類や資料の作成などのメンドウクサイ、等々。

あなたは、この“メンドウクサイ”にどう対処しているだろうか?

愚者は「先送りする」、「かわす(避ける)」、「人に押し付ける」。賢者は「直ぐに対処する」「向き合う」、「自分が対処する」と正反対の方法を選択する。

“メンドウクサイ”事は必然的に生じている事なので、避けては通れない事であり、自然と解決する訳もない事である。それにも拘わらず、愚者は先述の方法を選択する。愚者はそもそも、この事を認識していない場合もしばしばである。

先送りした事はドンドン積もり積もって巨大化すると共に複雑化する。そうなってしまっては手を付ける事さえ億劫になり、手を付けたとしても一人では対処不可能である事が殆どである。

「小さなことからコツコツと」や「苦は楽の種、楽は苦の種」という言葉が示す通り、“メンドウクサイ”からこそ、早いうちに、小さいうちに対処するのが賢明である。

言い換えれば、愚者は「横着者」で賢者は「勤勉者」。

どちらの人物が人から慕われ、信頼され、成功するか?言わずとも明白である。

あなたは愚者か賢者か?

それは頭がいいとか悪いとかの話ではない。

言葉と文章は嘘をつく

「やります!」、「出来ます!」、「わかりました!」、「反省しています」「買います!」、「頼みます!」と“言って”も、反省文や誓約書を“書いて”も、それは言っている人、書いている人の「本心」であるとは限らない。

唯一、「本心」を見抜くことになるのが、その人の「行動」だけである。

「行動」だけは嘘をつけない。

言い方を変えれば、「相手の言葉を鵜呑みにしない」という事が自分が傷つかないようにしたり、ショックを受けないようにしたり、また、腹を立てたりしたい為の最良の方法と言える。

こう言うと、「人を疑ってかかるのですか?」と返される。

「鵜呑みにしない」という事は「疑う」という事と辞書的な意味でも異なる。違う言葉で「鵜呑みにしない」を説明すると、「早合点しない」とか「真意を深く理解する」となる。

もっと言うなら、「ゆっくりと落ち着いて、相手の言っている事を質問返ししながら、言っている本心を確認する」となる。

ポイントとなるのは、相手に“質問返し”するという事。

相手に質問して、相手にたくさん話してもらう事で相手の本心を掴みとるのである。

これによって、相手自身も自分が発した言葉が相手に伝わっていないことを認識するし、自分の言葉と本心の一致不一致を明確に認識することになる。時に、話が支離滅裂になれば、発した言葉は本心ではないことが把握できる。

この様に、質問するスキルがあれば幸いであるが、無くても先述通り、「相手の“行動”を注視する」、これに限る。

“はず”・”だろう”がトラブルの根源

・長年取引しているからお客様の事は知っているはず。

・担当者なんだから、当然知っているだろう。

・この事は以前に話したから覚えいているはず。

・長年、この仕事をしているから知っているだろう。

・もうこの歳だから、こんな事は知っているはず。

 

こんな、“はず”や“だろう”と言う、あなたの「思い込み」や「決めつけ」を以て、お客様や部下と接していないだろうか?

意思疎通を図る相手に対して、常に細々と「わかってる(た)?」、「知ってる(た)?」等と聞いたり確認する事は相手に対して失礼でもあるし、メンドウクサイという事からも行わないのが普通である。

だからこそ、トラブルが起こる。

話すあなたの前提と聞いている相手の前提は必ずしも一致しない。

一つの物を同時に見ても、あなたと相手の見る角度が違えば違った見え方になるだろうし、見え方が同じとしても、同じように捉えるとは限らない。また、あなたが伝えたいことを伝えるために用いた語彙(単語)は相手が同じ理解をしているとは限らない。

だから、コミュニケーションは難しい。しかし、コミュニケーションは最も重要。

コミュニケーションに於けるトラブルを100%未然に防止する事はほとんど不可能であるが、意識することで抑制する事は可能である。

その方法は先述にあるが、相手に対して話し方は注意した上で、「知っているだろうか?」、「わかっているだろうか?」と配慮しながら、丁寧に慎重に確認しながらコミュニケーションを取るのである。

この配慮を以てコミュニケーションに臨むと、相手の話す内容から「前提のズレ」を感じ取れるようになる。そうなれば、互いの為に一旦立ち止まって、前提の確認を行えばよい。

こうやってコミュニケーションを取る方法がメンドウクサイ!と言うならば、これをせずに生じたトラブルに対処するメンドウクサイとどちらが本当にメンドウクサイのか?ゆっくりと考えれば答えは明白である。

相手が誰であっても、どんな話であっても、自分には「思い込み」、「決めつけ」がある、と自覚すれば、相手に対して丁寧に慎重に確認しながらコミュニケーションを取るという配慮が自然と出来るはずである。

先ずはコミュニケーションの「量」を。そして次に「質」を高めよう!

 

 

 

 

雑草刈り仕事に追い回されていないか?

日々の業務に於いて多種多様に生じる課題・問題。

それらを対処する事は必然であるが、誰も出来るのであれば、それが生じないことを望んでいる。

特にリーダーとなれば自分が起因する課題・問題以外にも部下からのものも含めて、対処に忙殺されがちである。

無論、それがリーダーの役割の一つであるので避けては通れないが、誤解しがちであるのは、精一杯、課題・問題に対処している事が自分の役割の本文であり、充実感を覚えるという事である。

表題の通り、多種多様に生じる課題・問題は言わば「雑草」。

雑草を取り除くべく、日々、奔走しても次から次へと別の場所で生えてきて、生えた場所に行って取り除くも、また別の場所で生えてくるので取り除きに行く。

あなたの仕事はこんな状態になっていないだろうか?

地上に生える雑草はあくまでも「結果」。本当にやらねばならない事は雑草の「根を絶やすこと」=「原因」を突き止める事。

得てして、多種多様な課題・問題と言う「結果」にばかり集中してしまい、更に事が拡大せぬよう対処に走る。これはこれで間違えている事ではないのだが、リーダーと言う上位者の役割は、これら「結果」に対する「原因」追究である。

「原因」追究方法は、多種多様に生じる「結果」に対して、“何故?”を投げかけてみる事。

それにより、様々な「原因」の「仮説」が考え出される。

考え出した「仮説」に対処する事こそ、リーダーの役割である。

“はい”は何に対する”はい”なのか?

自分にとって上位者からの指示や命令に対して「返事」をする事は礼儀として当然のことである。

しかし、指示や命令の内容に対して理解や同意していないにも関わらず、“はい”と返事する事はしてはいけないのだが、所謂「場の空気」から、“はい”と言わざるを得ない事が通例である。

中小企業の会議でよくある光景は、社長が幹部を集めて檄を飛ばす。そして最後に「いいか!わかったか!?」で締めくくる。

それに対して参加者は“はい”と返事する。正確には“はい”と「返事せざるを得ない」と言える。

こんなクロージングが日常茶飯事で、後日、社長が「あれ程言ったのに」、「あの時“はい”と返事しただろ」等の常套句で吠え始める。

リーダーが注意しなければならないのは、部下の“はい”の返事をしているのは、礼儀として言っているのか、内容の理解や合意として言っているのかを的確に把握する事。

求めているのは「“はい”という返事」ではなく、「望む結果」なのだから、部下は「望む結果」に到達する方法や知識・技術を知っているのか?それとも知らないのか?この点をリーダーが的確に把握しなければならない。

部下が知らなければ出来なくて当然だから教えなければならないし、教えたことを忘れているなら思い出させる必要がある。

叱るときは唯一、部下が知っているにも関わらず、本人の怠慢でやろうとしていない、やっていない時。

“はい”と言わせても、叱っても「望む結果」に至る確率が高まる訳ではない。「望む結果」に到達したいなら、“はい”と言っている部下それぞれの「能力」や「心理」を把握すべく、日々、豊富なコミュニケーションを取るのが最良の方法である。