「ここは学校じゃない!給料もらっているんだから自分で勉強しろ!」と言うセリフは“ごもっとも”です。
他にも、「いい歳して、そんな事も知らないのか!」、「何年社会人やっているんだ!」、「何年この仕事やってるんだ!」というセリフ。
が、しかし、誰もが自発的・能動的に勉強しないのが現実・・・。
現実は日々の業務を行う中で知る事が“学ぶ”になっている。だからこそ、よく聞く「勉強になりました!」。そして本人は満足感・充実感を味わっているかもしれない。
これも勉強しているという事として認めなければならない。但し、先述通り、自発的・能動的ではない。この点が冒頭のセリフが指している事である。
誰もが向上心が備わっているわけではない、出世したい!絶対に給料上げたい!と言う訳ではない。価値観は多種多様。
だからこそ、上位者が「教える」と言う事が一つの重要な“役割”と言える。違った言い方をすると、上位者が「教える」という労力を「面倒くさい」、「負担が掛る」と思う事から、冒頭のセリフを発しているのであれば役割怠慢・放棄と言える。
先ずは、上位者自身が「教える」という事を実行してみる。
「教える」を始めてみると、相手との関係性が顕在化する。関係性が不成立だと「教える」を有難迷惑と“拒む”。逆に成立していれば「教える」を有難いと“感謝する”。
“拒む”だと、何を言ったところで聞く訳もなかったこれまでの説明がつく。関係構築という基礎から作る必要があると気付かされる。
「教える」ことをしたにも関わらず、「忘れる」、「出来ない」事は叱ってよし。「教えていない」事は「知らなくて当然」という寛大な心を以て接する意識が上位者には必要である。