私は「企業」の反対語を「家業」と定義する。
これは辞書的な意味としては間違えているのは承知であるが、一般的な言葉の感覚的概念からして、こう定義付けるのがわかりやすいと思うことから、こうしている。これを前提に述べていきたい。
「企業」という言葉を聞けば、売り上げ規模や店舗数、事業所数など、規模が大きい会社の事を指すように認識されていると思う。逆に「家業」は家族や親近者で事業を行い、その規模が小さい状態を指すように認識されていると思う。これまた感覚的であり、辞書で調べると全く異なる内容が書かれている。
言いたいことは、規模の大小が「企業」と「家業」の違いではない、という事。私の定義は「仕組みの有無」が「企業」か「家業」の違いである。
その「仕組み」とは、多種多様なルールや基準である。パソコンで行われる受発注や勤怠、社内ネットワーク、売上管理などのシステムと言われる物も同様で、現場レベルではマニュアルも「仕組み」と言える。
これらの「仕組み」があるという事は、“属人的”ではない状態を作り出していると言える。但し、業務全てが「仕組み」になる訳はないので、出来るだけ多くの事柄が仕組みになっていれば「企業」と言えるのである。
逆に「家業」は殆ど多くを“人海戦術”や“手作業”=アナログで行っている状態が見受けられる。誤解してはいけないのは、これらをシステムに変える事だけが「仕組み」とは言えないのである。
「家業」にとって、最も欠落している「仕組み」は会社(経営者)と社員(従業員)にとっての「義務と権利」の明確化である。
具体的にいうと、社員の権利は会社の義務と言え、一方、社員の義務は会社の権利と言え、共に表裏一体である。
社員の権利として代表的なのが、「有給制度」や「給与体系」と思いがちだが、実は「労働基準法」。一方、会社の権利として代表的なのが「就業規則」。
「就業規則」とは、先述の「有給制度」や「給与体系」を含むもの。これは「労働基準法」に則った上で、それぞれの会社が独自に定めるルール・基準なので、会社の権利となる。
ありがちなのは、社員にとって最も身近で関心のあることを優先的に整備し、結果的に会社は“社員の権利を明確にした”と恩着せがましく言うに留まり、“社員がすべき事(=義務)”を明確にしていない状態。
では、“社員がすべき事”とは一体何か?
分かり易く言うと、業務上行う動作・作業・行為であり、社員が身に付けるべき「スキル(技術・技能)」と「ナレッジ(知識・情報)」である。
これらを「マニュアル」や「テキスト」と呼ばれる物に“書き換える”必要があり、書き換えれば「仕組み」と言える状態になる。
例えば、一般社員から1ランク昇格すると主任になるとして、主任に必要な「スキル」や「ナレッジ」は何か?が明確になっているという事。その為には、実務(動作)テストや筆記テスト等で、その有無を確認する必要がある。テストにしている状態こそ「仕組み」である。
そもそも、入社試験など無く、面接を受ければ容易に入社が可能な業種や会社では社員とPA(パート・アルバイト)の区別など全くと言っていいほど無いので、一般社員の定義が存在せず、とてもややこしく思いがちであるが、所謂、入社試験と言うものは会社が求める・必要とする社員としての「スキル」や「ナレッジ」の最低限度を定めることを意味するのである。そして、定める事も、「仕組み」と言える。
「仕組み」と言うものは、言い換えると「手間暇のかかる」、「頭をつかう」、更に、それは「書類化」する、イコール「可視化する」という事である。平たく言うと、とても“メンドウクサイ”事をしなければ、組み立てられない事なのである。
“とてもメンドウクサイ”だけに中小企業は「仕組み」が少ない。逆にいうと“属人的”で多くを人の記憶や判断に頼っている。要はメンドウクサイ事を避けたり、先延ばしにしているのである。
目先の“メンドウクサイ”によって、社員との関係がギクシャクしていないだろうか?離職率は高くなっていないだろうか?優秀な人材は辞めて行ってはいないだろうか?会社は着実に成長しているのだろうか?トラブルやクレームは大抵同じような内容ではないだろうか?
経営者が自らの立場を誤解し、「“メンドウクサイ”は社員が行う事」と思っていたら、それが会社の最大の課題!
経営者は経営者として“メンドウクサイ”事に取り組まねばならない!それは決して社員が行うのではなく、行える訳もない。
経営者はそれ相当の能力を有しているからこそ、経営者であるはずなので、万一、“メンドウクサイ”事に向き合わなかったり、結論を見いだせないようであれば、「経営者の能力ナシ」と言えるので、自発的に降りるべき、または指名した人は即座に適当な人物に変更すべきである。
もう少しいうと、経営者=役員であるにもかかわらず、日々行っている内容が「実務」であるならば、それは「名ばかり経営者」と言う。経営者であるならば、実務を自らが行わなくてもいい状態にする能力(=物理的人員面と金銭面の両面で)が当然に必要である。それが出来ないなら、それも「名ばかり経営者」と言う。
「義務」や「権利」イコール、各種制度や基準やルール。細かい点で言うと業務(実務)マニュアルから各種書式設定など、多種多様、大小問わず、自ら書類化するものもあれば、士業と言われる各種専門家と手を組んで作成する場合もあり、具体的指示をして社員に書類化させることが経営者の経営と言う重要な仕事の一つである。(敢えて言っておくが、士業にせよ社員にせよ、「やっておけ」というのは大誤解である。経営者が主体的に考えたことを始点に始めるのが当然である)
「義務」と「権利」が明確になるという事は、「仕組み」が確立したという事になる。そうすれば、これまで時間や頭を取られていたことが嘘のようにスッキリと減り、生産的な将来的な事項に集中したり時間を費やすことが可能となるのである。
逆を言えば、何年も何度も同じような事を繰り返したり悩んだりしているという事は、時間だけ過ぎていて、本質的な事は何も解決されておらず、変わっていない証拠と言える。
それが嫌なら、経営者は経営者としてしなければならない“メンドウクサイ”「義務」と「権利」を出来るだけ多く明確化すればいいのである。
「家業」を「企業」にするのか、出来るのかは社員ではなく、経営者の能力にかかっている。今一度言うが「企業」とは「仕組み」が存在する会社の事を指す。血縁親族以外の人が、それ以上多く存在していたり、規模が大きくなって行くと「家業」の実態では立ち行かなくなるのが必然。
経営者の役割を果たせぬ能力の人が経営者になっているなら、その会社は必ず崩壊するか、良くて一定規模どまりで恒常的に同一の課題を抱えて疲弊状態である。
脱却する方法は2つ。1つは経営者を交代させる。1つは経営者の勉強を行い、果たすべき役割を果たせばよい。至極、単純な事である。
最後に当然のことを言えば、会社を良くするも悪くするも経営者。会社を大きくするも小さくするも経営者。社員を幸せにするも不幸にするも経営者。