「こうして(こう言って)あげれば相手は喜ぶだろう」、「相手はこうして(こう言って)欲しいだろう」等々、相手を思う心(親切心)は、その言動を行う人(言動者)の考えに基づくものであるが、時として結果的に、その親切心を受ける相手が“有難い”と思わない、思えなければ、その言動は「迷惑」でしかない。
言動者からすると、相手が「迷惑」だと受け取った反応に対して、不愉快に思ったり、時には怒る事がある。
これは、言動者が「自分は正しい事をしている」、「自分は親切な事をしているのに」と、自分を“一方的に正当化”していると言え、だから、「“ありがとう”と言わない相手は失礼」、「何故、素直に感謝したり喜ばないのか?」と考える。
こう考えては本末転倒ではないだろうか?
真なる「親切心」とは、相手が有難いと受け取って初めて成立するものなので、言動者が判断する事ではない。
ましてや、言動者が相手の反応を自分が描く通りの想像・期待をしているのであれば、それは言動者の独りよがりであり、見返りを求めている卑しい心であって、「親切心」では全くない。
この様な“「親切心」に見せかけた言動者のマスターベーション”にならないようにする為には、日常的に「相手を知る」必要がある。もっと言えば、「相手を“熟知する”必要がある」。
相手の価値観、思考傾向、趣味、嗜好、癖、習慣、等々。意識して観察する事無しにこれらの情報は得られない。
お分かりの通り、これらを知るには相当の時間が掛かる。念のために言えば、長い時間一緒に居るからと言って知っているとは限らない、先述通り、“意識して知ろうとしない限り”知りえない事だからである。
「親切心」のみならず、コミュニケーションが難しいと言われる原因はここにある。
家族も含めて自分以外の「他人」を、時間という量のみならず、情報の質も意識的に収集に費やす事は容易ではないからである。
私に言わせると、コミュニケーショントラブルはスキル不足以上にナレッジ(知識・情報)不足の方が大きいと言え、多くの場合、相手の事を殆ど知らないにも関わらず、または相手の事を見て(捉えて)いる様で見え(捉え)ていない状態で行われている、と考えている。
更に言えば、ナレッジを一般論をベースに考えると、一般論とは定義も基準もなく目に見えないだけに、言動者の知識・経験による一般論を以て話すので、相手と異なる一般論であればトラブルの原因になって当然である。
「相手を知る」事は「他人に興味・関心を持つこと」と言え、更に言えば「人に興味・関心を持つこと」。
声を大にして言いたい事は、「自分の理解・共感できる価値観や思考の人に“だけ”興味・関心を持つ」のではなく、「自分の価値観や思考等と異なる人“にも”興味・関心を持つ」事で初めて、一般論の幅が広がり自分を助ける貴重な情報源に変わる。
平たく逆に言うと、“人を決め付ける人”、“思い込み激しい人”は、どうしたってコミュニケーショントラブルを起こし易い人であり、真の「親切心」を提供することも難しい。
繰り返すが、真なる「親切心」とは、相手が有難いと受け取って初めて成立するものなので、言動者が判断する事ではない。